「御神体、青亀に乗りて漂着するなり、
よってこの地を青亀(あふぎ)というなり」
その昔、保久良神社の御神体(神武東征のおり青亀に乗って現れた水先案内の神「珍彦(うずひこ)」後に椎根津彦)が役目を終え漂着したのが今の青木の浜で、その地を青亀(あふぎ)から青木(おおぎ)と変化したと云われています。
青を「おお」とは神官が神さまを呼ぶときに叫ぶ言葉(警蹕=けいひつ)で、青木の木は神様の樹(よりしろ)と言う意味で、「神様が集まり着く所」=「人々が集まる地」という意味があるそうで。全国でもこのような地名をさがしている研究者もいます
神様が漂着した所は「白砂青松(はくしゃせいしょう)」と呼ばれる、広く白い砂浜で、松林があった美しい浜辺で、そこに神社を建立されたのが現在の八坂神社の場所です。ですから昔は現在の国道43号線付近は浜辺だったことになります。神社も区画整備以前は現在の3倍ぐらいの敷地があり、多くの神々のお社もありました。また浜辺には青海亀や赤海亀がよく迷い込んでいました(写真は、昭和32年(1957)に撮影された赤海亀です)。
(摂津名所図会)
源平や南北朝時代は、戦場になっていました(詳しくはだんじり採用の物語)。また安土時代、伊丹城主の荒木村重が本願寺派につき信長に謀反を起こしたとき、一向衆の拠点であった尼崎から現在の元町付近にあった花隈城までは、信長軍に制圧され、特に兵庫の村々は焼き討ちにあうという散々な状態でした。源平、南北朝、戦国時代などいずれの時代もこの地の取り合いをしたわけではなく、戦略的な面で(山陽・山陰路・京都・大坂方面)この地が戦場となったわけです(平清盛が兵庫の福原に都をおいたのは七ヶ月ほどです)。 豊臣時代は、直轄地でありました。徳川時代始め、尼崎城主の管轄になりましたが、江戸中期に灘五郷の発達などで後に天領となりました(上図:摂津名所図会:寛政10年(1798))
(産業)
青木周辺は、本庄9カ村と呼ばれ、東は芦屋川、西は天上川より500m東、北は六甲山頂上(山は共有地)まであります。青木は、漁師、職人、百姓の村で、東隣の深江村同様に取れた魚を山をこへ有馬までもっていきました。この道を魚道(トトヤミチ)と呼んでいます。
この近辺がにぎやかになったのは、江戸中期以降の享保年間、酒の灘五郷と呼ばれるようになってからです。当時、魚崎・青木・深江などで灘の東郷と呼ばれていまして、現在は主に魚崎郷と呼ばれていますが、酒造業が盛んでありました。銘柄としては、灘利、灘七など結構有名であったそうです。しかしながら水質・製法等の影響で明治初めには衰退してしまいました。魚崎等は水車などによる極精米を用い、つまりよく突かれた米からは透き通った酒、いわいる清酒ができましたが、青木では足ふみでの製造であったため、にごり酒となり品質面で劣ってしまいました。
ところで「酒かす」を原料とする焼酎・みりん・酢等の生産が始まり当地の酒かすを全てここで消費するまでになりました。しかし当時の税制改革で二重課税となった焼酎・みりんの生産は途絶えました。酢の生産は続けられ、明治25年名古屋から本社を移転させてきました丸勘酢が十数年前まで青木にありましたがいまは六甲アイランドに移転しその場所はマンションになっておりす。
(灘目(なだもく)素麺)
天保時代(1833年)、この地の(木村)重左衛門が奈良の三輪へ行き素麺製造の技法を覚えこの地に伝えました。
そして一大生産拠点となり、青木・西青木で素麺倉が二十数軒もあったそうです。また明治時代にはカルフォルニア、パリ、セントルイス博等で金杯を受賞するという名誉もありました。その素麺の製造は毎年11月より始まり翌年三月末までの仕事で、農閑期の短期であったため、ここに出稼ぎに来ていた播州(揖保郡)の人たちがその技法を覚え、播州(揖保郡)で生産し初め、次第に増加しはじめ、人手や原材料など価格面で勝負出来なくなり青木の素麺業は大正から昭和の初め頃に衰退しました。まだ東灘区では素麺を生産している倉が残っています。

(大水害)
(室戸台風)
昭和9年9月21日午前5時、大きな台風が青木の東隣、深江に上陸しました。中心気圧716Hp、最大風速21,9M、これまでにない大きな台風で、本庄村で死者16人も出て、海岸近辺の家・魚市場・工場等は壊滅状態になりました。阪神青木駅の所でもひざ上まで潮がきていたそうです。
(阪神大水害)
昭和13年7月5日、梅雨の終わり頃、大雨が降り、花崗岩でできている六甲山の地盤がゆるみ山津波となって神戸市中心街から深江までおそわれました。ひどいところでは土砂が2Mにも達し、阪神青木駅西の天井川が大反乱をおこし西青木地区だけで500戸が被害を受けました(復興記念碑が青木駅北の春日神社境内にあります)。
(戦争へ)

大阪湾ことに灘浜沖では観艦式が数回行われました。この写真は昭和12年(1936)10月(御召艦・戦艦比叡)のものです。一般の人の乗船が許されたのは軽巡洋艦「大井」で、青木の漁師船がピストン輸送でお客さんを送っていました。 しかし華やかだったのはこの時まででした。
(第二次世界大戦:空襲)
昭和20年5月11日、大阪湾に集結した80機のB29のうち60機は、十数隊に分かれ南から進入し、この地域である武庫郡南部、灘区に1?250k爆弾数百発を落としました。 青木には東洋一の川西航空機甲南製作所があり、飛行艇、爆撃機「銀河」、戦闘機「紫電改」、夜間戦闘機「極光」など造っていまして、アメリカ軍の本土爆撃でねらわれました。工場では死者138名、学校では児童11名、本庄村では360名以上でした。
6月5日にはB29が350機やってきて、3000トンの焼い弾や中小の爆弾で徹底的に爆撃をされ、御影から本庄村にかけて269名の死者がでました。8月5日にも爆撃をうけ、この3回の爆撃で本庄村では1万5656名が被害を受け、436名が亡くなりました。

(戦後)
第二次世界対戦後、市町村合併が進み神戸市や芦屋市が合併の話を持ち掛けてきました。、本山、本庄、芦屋などで甲南市を作る計画などもあり、神戸市に編入した方がいいと村を2分する論争が起こりましたが、住民投票の結果、本山村についで昭和25年神戸市に編入されました。 その後神戸市主体による区画整備計画に入り、現在のように整備された環境になりました。

(阪神大震災と市場・商店街)
みなさんご存知のように平成7年1月17日の大震災で、青木市場が火災にあい、その周辺の商店街も炎につつまれました。火災をのがれたお店も倒壊し、また青木商店街も大試練を受けることになりました。しかしながら地域の衣食住やサービスを支えるという昔ながらの伝統を引き継ぎ、テントや仮設でお店を再開し地域住民に物資とサービスを供給させていただきました。
さらに昭和50年なかばより始まっている阪神電鉄の高架事業も本格化しお店の移転など
で空地が目立ちますが、また新しい商店街の育成のため前向きにとらえながら頑張っています。
(西青木)
阪神青木駅の南北の地は、西青木地区で町が別になっています。昔は山路荘に属していまして、お祭りなどの行事ごとや(宮本は住吉神社)、保有林(背山)は、住吉、野寄、岡本、田中、魚崎地区と関係が深くなっていました(今も関係しあっています)。しかし現在は、人々の連絡は深江、青木地区と親密になっています。
日本で最初のプロゴルファー「福井覚治」
明治34年英国人グルーム氏が造った六甲山4コースのゴルフ場が日本初でしたが、西青木浜手西・現在の魚崎中学校付近に横屋ゴルフ場が明治37年に造られました。これも日本で二番目のゴルフ場でした。六甲山のゴルフ場が気候の関係で年に四ヶ月しか出来なかったので、年中したいということで英国の貿易商のロビンソン氏が6ホールのゴルフ場を造りました。このゴルフ場の芝の手入れをしていたのが、西青木の福井藤太郎氏でして、外国人が彼の家によく出入りするうちに、藤太郎氏の弟、覚治氏がキャディーをするようになり、そのうちにゴルフを覚え、ついには日本最初のプロゴルファーになりました。また道具も製造・販売していたそうです。この地域のみなさんは「覚(かく)」さんと親しみをこめて呼んでいたそうです。
大正時代になりゴルフ場の持ち主がかわり、「甲南ゴルフ場」と名前がかわり、昭和13年の阪神大水害で消滅するまでありました。